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家族がひとり亡くなるということ。

●さて、父が亡くなるという事態に出くわして、少し気が抜けてしまいました。病室のあるフロアの談話室に妹と座り込みしばし呆然。
●いつまでも呆けているわけにもいかないので、連絡すべきところに連絡をしようと思い、電話を始めました。まずかけたのがうちの奥さん。ちょうど互助会の契約が終わったところで、父が亡くなったことを伝えたらものすごくびっくりされました。
●ちょうどいい、という言い方はどうなんだ、という気もしますが、自宅の近くで葬儀を行おうと考えていたので、奥さんには葬儀の下打ち合わせをしておいてもらうことにしました。こんなタイミングで葬儀をお願いすることになるとは、世の中何があるかわかりませんね。
●先だって連絡した叔父さんにも報告しました。「そうかい、いろいろ大変だろうけど、よろしく頼むわ」。もう覚悟を決めていたんだな、そんなことが感じられる声でした。「わかりました。葬儀は自宅近くでやりますので、よろしくお願いします」といったら「ああ」という返事。声に力がないのは兄弟を亡くしたからだと思っていました。
●父の親族をはじめ、母の親族などにも連絡を取りました。入院したことすら伝えておらず、いきなりの死去の知らせに、皆さん、とても驚いていらっしゃいました。「なんで早く知らせてくれないの」という方もいました。すみません。我々もあまりに突然のことに驚いてるんですよ。
●さて、まず考えなければならんのは父の遺体を私の自宅近くの葬祭場に運ぶ算段です。まあ、考えるまでもなく、看護師の方がそういう業者を紹介してくれたのですが。そうなると問題はいつ運べるか。電話をしてみたら、今日中に手配できるとのこと。良かった。
●少し安心したので、妹と食事をしにいくことにしました。でも、どこに行ったのか、全く覚えていません。どうしたんだろ。

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父が、母のもとに旅立って行きました。(10)

●父の余命を知らされて以来、親族や知己に知らせるかどうか、ということも悩みました。「今のうちに顔が見たい」「お見舞いに行きたい」という人がいたらどうしよう、なんていらんことを考えるんですよ。見舞われる方もしんどいかもしれないし。しかし、叔父さん(父のすぐ下の弟に当たります)だけにはお知らせしておくことにしました。
●他に父の状態を知っていたのは奥さんのご両親ぐらい。話ができるようだったら一度お見舞いに行くから、と言ってくれていました。じゃあ次の週末にはみんなで見舞いに、と考えていました。
●妹は心配だったのか、1月30日から再び付き添うことにしていました。そして妹が病院に向かうはずだったその日の早朝、5時過ぎだったと思いますが私のケータイに着信があったようです。
●あったようだ、というのは、そうです。気がつかなかった。マナーモードにしていた上にベッドから離れたところに置いていたので、「ん?」と思って電話を取りに行ったときには切れていました。
●ほどなく、妹から電話が入りました。「今朝、様態が急変したって」。病院からの連絡は、私が電話に出ないので、妹の方に伝わったようでした。「わかった、すぐ行こう」。その時点では、まだ病状がさらに悪くなったという連絡で、我々もそう思っていました。
●着替え、車で妹をピックアップし、一路病院を目指しました。途中、病院から妹のケータイに連絡が入りました。「何時ごろ着きますか?だって」。
●一刻を争うような状況なのか…その時点で覚悟を決めました。病院に着いたのは10時半過ぎ。病室に入ると、父は寝ているように見えました。しかし、その表情には、全く生気がありません。
●我々が到着しているのに気づいた看護師の方が、主治医の先生を呼んできてくれました。「どうも」と言いながら病室に入った先生は、父のまぶたを開きライトの光を当てると、腕時計で時間を確認し、「10時50分、ご臨終です」と告げてくれました。
●昨晩から急激に状態が悪くなったようです。「できる限りのことをしたんですが、申し訳ありません」。いえいえ先生、ありがとうございました。おそらくこの日の朝には父の命の営みはおわりを迎えていたんだと思います。先生のおかげで、死亡診断書の上では、最後に間に合うことができました。
●「何も家族の付き添いが居ないときに死ぬこと無いじゃん」。妹がつぶやきました。「まあ、最後までそういう人だったな」と私。ともかくおつかれさまでした。ゆっくり休んでくれ、そんなことしか頭に浮かびませんでした。

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父が、母のもとに旅立って行きました。(9)

●互助会、というものがあります。webの辞書によれば「冠婚葬祭にかかる費用を会員同志で助け合うという趣旨で始めた、経済産業省認可の組織。毎月、一定金額を掛け金として積み立て、冠婚葬祭の費用にあてるシステム」ということです。
●それぞれ株式会社の形をとり、全国約300社あるそうです。存在は知っていましたが、まあ、それだけでした。しかし、近所の葬儀店で集めてきてくれた情報を検討してみると、費用の面で、これは加入したほうが絶対に有利だと思える内容でした。
●当時、奥さんは単発で派遣の仕事をしていて、水木が休みでした。次の休みに互助会加入の契約をしに行ってもらうことにしました。何があるかわからないし、早いほうがいいだろう、そう考えてのことでした。
●父の状態はやや良い方に向かっていました。で、妹もそれほど長期間滞在できる用意をしていなかったので、一旦自宅に帰ることになりました。そして、来るべきその日までのことを相談しておこう。そう考えていました。
●点滴だけで栄養を補給していた父も、何日かしたらお粥食ぐらいは摂れるようになるのでは、と言われていました。こんな状況で、1月は終わる、はずでした。

(もう少し続きます)

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父が、母のもとに旅立って行きました。(8)

●5年前、15年にわたる脳梗塞との闘病の結果、母はなく亡くなりました。半年程の間、何度も危機的な状況に陥った末の死去でした。覚悟は決めてはいたのですが、父も、われわれ子供も具体的な準備を進めるというところまではいかず、亡くなって初めてドタバタし始めるという体たらくでした。
●葬儀を行ったのは当時父母の住んでいた佐野市。父親母親どちらのの出身地でもなく、母が闘病生活を送るのに好適で、経済的にも負担が少ないということで探し、決めた住まいだったので、私たち子供が暮らす場所からも遠く、親族もその多くは離れた地域に居住していました。
●母の死から葬儀の終了までの約1週間。私と家内、妹は、父の住まう集合住宅の空き部屋を借りて滞在しました。葬儀が大変なのは覚悟の上でしたが、仮住まいは何かと落ち着かず、かなりの負担を感じました。
●ですから、真っ先に考えたのは、万一(かなりの確率であるわけですが)葬儀を行うことになったらわれわれの住まいの近辺で行おうということでした。
●母の死後、いろいろありましたが、われわれの住まいの近くに新たな墓所を入手していたという事情もありました。葬儀に集まったくれるであろう皆さんも、そのほうが多少は負担だ少ないということも考えました。
●次に考えたのは「お金」。どれくらいかかるのか、母のときは父親が把握していたのですが、その後「聞いておかなくては」とは思ったいましたが、放置していました。まずは葬儀屋さんに相談しておこう、と考えて奥さんに一番近い葬祭業者に行って貰うことにしました。これがその後、大きな効果を発揮することになるとは、まだ知る由もありませんでした。

(まだ続く)

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父が、母のもとに旅立って行きました。(7)

●父の検査は、見舞いに行った2日後のことでした。終了後、付き添ってくれていた妹から電話がありました。
●「う〜ん、良くないねえ」「そんなに?」「暖かくなるまで持つかどうかだって」「4月ぐらい?」「うん、はっきり期限は言われなかったけど」。そんな会話だったような気がします。
●全体的にいろいろ弱っていたらしいんですが、一番の問題は「悪性リンパ腫」とのことでした。(こんなことがあるまで知らなかったのですが、「良性」のリンパ腫というのはないんですってね。)妹は主治医の方にレントゲン写真を見せて貰ったのですが、脇の下のあたりに、明らかに腫れているリンパ節と思しきものが見えたそうです。
●春までかあ…。最初は事態がよく飲み込めませんでした、というか、事態はよくわかるのですが、どう反応していのかわからない。なんせ初めての経験ですから、余命を告げられるなんていうのは。
●5年前に亡くなった母は、20年前に脳梗塞で倒れて以来、「いつ何があってもわからない状態です」と言われ続け、15年間頑張った末に息を引き取りました。「その日」を分かった上で迎えるにはどうしたらいいのか、よくわかりませんでした。
●しかし、何もしないわけにもいきません。「そうなったら、どこで葬儀をしようか」。そんなことから考え始めることにしました。

(続く)

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父が、母のもとに旅立って行きました。(6)

●相変わらず仕事がタイトになると更新が全くできません。当たり前ですが。

●「父が救急車で運ばれた」という連絡を受け、動きの取れない私に変わって妹が病院に駆けつけてくれました。妹が到着したときには、父は少し落ち着いて眠っていたようです。
●簡単な検査は終えていたようですが、本格的な検査は状態が本当に落ち着いてから。次の週になるとのことでした。「顔を見た限り、相当やつれてる。かなり悪いかもしれない」。妹の声は落ち着いてはいましたが、やはりいつもとは違う響きがありました。
●後になって聞いたと記憶していますが、この日の血液検査で体内のどこかで大きな炎症が起きていることを示すデータが出ていたそうです。それが体調の悪さにつながっていたのでしょう。
●私は2日後の日曜日、息子を連れて見舞いに行きました。昼過ぎ、息子を伴って病室に入って行くと、父は目覚めており、点滴を受けていました。
●息子に気づいた父は、弱々しく手を振りながら、「ああ、ありがと。病気になっちゃったよ」と声をかけてくれました。息子もさすがにいつもと違うじいじの様子に何かを感じたのか、「じいじ大丈夫?」と顔を覗き込んでいました。「ああ…」と父。結果的にはこれが息子とじいじの最後の会話になりました。

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父が、母のもとに旅立って行きました。(5)

●1月18日に父から電話をもらい、妹と相談の結果、入院予定だった翌日に再び妹に付き添いに行ってもらうことにしました。私は20日の土曜日に見舞いに行けばいいかな、なんて考えていました。
●19日の早朝、私の携帯電話に着信があったようでした。しかし気づくことができませんでした。いつもどおりの時間に起床し、奥さん、息子と一緒に朝食をとっていたとき、携帯が鳴りました。妹からでした。父が住んでいる高齢者・障害者向け住宅に常駐しているスタッフの方から連絡が入ったそうです。
●早朝、父の体調が急変し、救急車で病院まで運ばれたということでした。妹はこれからすぐに病院に向かうとのこと。とにかく様子がわからないので、まずは病状を確認してもらうようお願いしました。
●その日は仕事を休むわけにはいかず、いつもどおりに家をでました。バスを降り、自宅最寄駅で電車に乗ろうとしたら、常駐スタッフの方から電話が入りました。
●病院からの連絡を伝える電話でした。ちょっと深刻な状況になっている部分があり、検査も含めて入院することになったという内容でした。
●母の最後の時も、朝からこんな状況だったことを思い出しました。思っていたより早く覚悟を決めなければならない時期がやってきたようでした。

(つづく)

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橋下徹大阪市長の発言について考える

◆橋本大阪市長が「慰安婦容認」とも取れる発言をしたということで話題となり、あちこちのニュースサイトに取り上げられたり、各方面から批判を浴びたりしている。
◆よく読めば、慰安婦制度を容認しているわけではないとは思うのだが、「命をかけて走っていく時に、休息ではないけれど、慰安婦制度は必要。誰だってわかる」なんて言ってしまうのは、余りにも乱暴だし、ラディカルなことを行って目立ちたいだけなんじゃなかろうかと思ってた。
◆しかしその後、普天間のアメリカ軍司令官に何やら言ったというニュースに触れて、なんだかただの乱暴じゃないような気がして、ちょっと考えてみた。

◆発端は13日、会見で戦時中の旧日本軍慰安婦について「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」と述べ、慰安婦は必要だったとの認識を示したことだった。
◆誰もがそう考えると思われては困るが、彼がそう考えるのは勝手だ。まあ、男が何か興奮して走り回ると女の人に慰められないと収まらない、ということでしょう。
◆で、慰安婦という制度が必要だったとお考えであると。さて、当時、慰安婦のみなさんはどういう行為でいきり立つ旧日本軍のみなさんを慰めたのでしょうか?お茶飲んでカルタ取り。あるいは古式に法って和歌を詠み交わす、なんて事ではないことはみなさんお分かりかと存じます。
◆まあそういう行為があったからこそ、未だにいろいろやりきれない問題が片付かないわけですが、それはまた別のお話ということで、すみません。
◆いきり立った武士(もののふ)の心を鎮めるには、そういった行為が欠かせない。橋下市長はそうお考えだと思っていいかと思います。いいですよね?違いますか?
◆さて、そこで考えたいのが、普天間のアメリカ軍司令官への提案です。国は違えど現代の武士(もののふ)がたくさん暮らしている訳ですから、橋下市長はご自身の信条に従い、「彼らのいきり立った心根を鎮めるためには、あの行為が必要に違いない」と考えたのでしょう。

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父が、母のもとに旅立って行きました。(4)

●なんだか、書き始めたらいろいろなことを思い出して、止まらなくなってきました。

●正月休みは何事も無く終わり、日常が戻ってきました。しかし、心配は心配なので、父に電話をする機会も増えました。1月の10日前後には、手術の結果を見てもらうために病院に行く予定になっているようでした。
●電話をしている限りでは、相変わらず状況の変化は感じられませんでした。しかし、後から分かったことですが、本人は異常を感じていたようです。
●父は、20年前に母が脳梗塞で倒れ、最初は看病、後に看護生活になって以来、日記を残していました。遺品や住まいの整理を終えて、残されていた最後の日記帳を見ていたら、1月6日の記述に、腰の痛みと便通があまりよくないので、術後の再診時に相談してみよう、という内容の書き込みがありました。
●再診の結果は、傷の回復も順調で、本人も「昨日の今日で回復とはいかぬ」などと書いていました。
●次に異常を感じさせる記述が現れるのは1月18日でした。「どうも大儀なる日が続くので○○(私の名前)と○○(妹の名前)に電話し、どちらか来てくれるよう頼む。○○(妹です)が来てくれると返事あり。感謝。」
●筆跡も弱々しく、乱れがち。結果的には、これが絶筆となりました。

(続きます)

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父が、母のもとに旅立って行きました。(3)

●年末年始は奥さんの実家で過ごし、お義父さんやお義母さんたちと、「お父さん何もなくてよかったねえ」なんて話していました。そして1月4日の日だったか、奥さんは別の用事があったので、息子と二人で父に会いに佐野へ向かいました。
●さすがに手術が堪えたらしく、ちょっと老け込んではいましたが声や動きは普通通り。具合が悪いようには見えませんでした。
●さて、お正月、子供と言えばお年玉。これまで父は「お年玉」と言って、息子には手作りのおもちゃ(木やペットボトルを廃品利用して作った飛行機や竹とんぼ、どんぐりで作ったコマなど)をくれていました。まあまだ小さいし、息子も喜んでいたし、息子のいとこたちにたくさんもらったコマをあげたら大喜びだったので、まあいいかなと思っていました。そして、今年もやはりお年玉は手作りの車。息子もすぐに食いついていたので「良かったな」と私が言った直後、父が「お金はお前が大人になったらあげるからね」と一言。
●「大人になったら」って、あと何年!?と思いましたが、まあそれだけ長いこと頑張って生きてくれたら有難い、と思って、「じゃあそれまで期待して待ってような」と息子と話しながら父の家を後にしました。
●奥さんの実家に戻り、「お金は大人になってから」と言われた話をすると、「お父さんらしいや」と義父や義母に言われました。「息子が二十歳になったら親父、百歳だよ」「この年で手術も乗り越えたし、案外それぐらい長生きするかもね」。なんて、能天気な会話をみんなでしていたわけです。
●実際、それぐらい元気だったんですよ、母を亡くしてからの父は。母がなくなるまでは、病院への送り迎えなどがあるので車の運転をしていましたが、母が亡くなると、「事故を起こして他人の迷惑になっちゃいけない」と早々に免許を返上。車がないと不便な地域なのでどうするのか、と思っていたらいつの間にか自転車を購入。住まっていたマンションのスタッフの方の話によれば、役所へ、病院へ、買い物へと動き回っていたようです。

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父が、母のもとに旅立って行きました。(2)

●父の入院予定は、12月17日に病院入り。18日に手術。23日頃には退院、というものでした。妹が準備のため入院の前日から父の家に泊まりこんでくれました。私は仕事の都合が付かず、手術後の20日に見舞いに行きました。手術は問題なく終わったようで、本人もまずまず元気。食事時だったのですが、出された食事も残さず平らげたのを見て、とりあえず安心しました。
●手術の内容は腹部のヘルニア。いわゆる「脱腸」というやつですね。「このところ、どうもお腹の調子が悪いので、思い切って診てもらったら、どうも脱腸だったらしいんだよ」とのこと。もういい年なんだから「思い切って」なんで言う前に病院にかかってもらいたいもんですが、どうもそういう人なんで仕方がない。
●「まあ無事に済んでよかったね。正月にまた来るから」と言ってその日は帰宅しました。退院時にはまた妹が付き添ってくれました。
●このときは、ヘルニア以外に特段の問題が指摘されることもありませんでした。しかし、こういうことを繰り返しながら弱っていくんだろうな。こちらも覚悟をしておかなくてはいけないだろうな。そんなことを考えながら、年末年始を迎えました。何度か父にも連絡をしましたが、取り立てて異常はないようでした。

(すみません。また続きます)

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父が、母のもとに旅立って行きました。(1)

●今年の1月30日。父が、母が息を引き取ったのと同じ栃木県佐野市の病院で静かに亡くなりました。今年の10月には85歳になるはずでしたが、なんだか急に思い立って旅に出かけたような最後でした。四十九日も終わり、家族が亡くなることにまつわるさまざまな手続きもほぼ終わった今でも、息子として何が起こったのか良くつかみかねているうちに、そんなことはおかまいなく往ってしまったような気がしています。亡くなった人に何ですが、最後まで自分勝手、は言い過ぎか。マイペースな男だったなあ、と思います。
●母が亡くなって5年。父は、母の介護のために探した佐野にある高齢者・障がい者向けの集合住宅に一人で住んでいた訳ですが、年齢なりの高血圧やら下肢の神経痛などで医者にかかったような話は聞いていましたが、その他大きな病気や加齢による身体の不自由に因るケガなども無く、子供としては有り難いと思っていました。
●15年にわたり脳梗塞の症状に苦しんだ母の介護が全てだった生活から解放され(母には申し訳ないですが)、ストレスも無くなっていたんじゃないか。その分長生きをするんじゃないか、なんて勝手なことを考えていました。
●私の息子も、「パパのパパ」ということがようやくわかるようになったのか、父を尋ねる度に、どんどん懐いていっていました。

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