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日本人の外国語処理能力

「リスク、コンシェルジュ…わからん!」放送での外国語乱用で苦痛とNHK提訴というニュースがありました。提訴したのは岐阜県の71歳の男性。
■訴えによれば、「NHKでは報道、娯楽番組を問わず番組内で「リスク」「トラブル」などの外国語が多用されているだけでなく「BSコンシェルジュ」などと番組名にも用いられている」「公共性が強いNHKが日本語を軽視するような姿勢に強い疑問がある」とのこと。「NHKだけの問題ではないが、公共放送は特に影響力が強い。年配者にも分かるような放送をしてほしい」とのこと。
■コピーライターなんて仕事をしている身としては耳が痛い。インパクトがあってエッジの効いた言葉はないかな、なんていつも考えているし、新鮮で面白いと思えばたとえ日本語ですむことだってどんどん外国語にしてしまう。職業名がすでに外国語だし。
■エッセイの名人 故山本夏彦さんによれば、外国語を乱用して日本語をだめにしている代表はコピーライターだそうで、そのうちどこかから訴えられても仕方がないんじゃないかと思う。
■しかし、日本語なんてもともと中国の言葉(漢語)をどんどん取り入れて成立したようなもんだし、明治以来、外国の文明レベルに追いつくために知識を言葉ごと取り入れてきた。それが今でも続いているのではないかと思う。ただ、明治期には福沢諭吉さんを初めとした先哲が外国語を日本語(漢語ですが)に翻訳してくれていた(演説、議論などがそうらしいですね)のですが、だんだん情報量が増えて翻訳している暇がなく、外国語がそのまま放送に氾濫するようになってしまったのではないか。
■そう考えると、この状況も仕方がないんじゃないかと思うし、大多数の日本人はそんな外国語を平気で受け入れ、「外来語」として使っているわけですね。
■リスクやトラブルなどの言葉も、遠からずテレビやミシンのように日本語化するのではないでしょうか。そうやって変化していく言葉なんですよ、日本語って。まあ、公共放送機関がそれをどう考え、どう対応するのかは別の問題ですが。
■この提訴がどのような結末になるのか、楽しみではありますね。

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いよいよ葬儀当日です。

●2月4日月曜日、いよいよ葬儀当日です。今日1800から御通夜、明日の1100から告別式です。朝起きてまず気になるのは天気。母のときは2日ともずいぶん雨が降りました。「雨より風が嫌い」と常々言っていた人だったので、参列していただいた親戚の方から「お母さんらしくていいじゃない」と言われたものです。
●朝起きて外を見ると、確か雲は多いものの雨ではありませんでした。少し寒そうですが、悪くない天気だと思いました。一度実家に戻ったお義母さんがお義父さんと一緒にまた来てくれました。確か駅まで迎えに行ってるはずなんですが、記憶があいまいです。自分ではあまり感じていなかったのですが、テンパっていたんでしょうね、かなり。
●細かい持ち物のチェックやらあちこち電話をしているうちにあっという間に沿う議場に集合する時間です。予約していた部屋に向かうと、すでに父は霊安室から移され、納棺を待っていました。受付近くに写真が飾られたコーナーも用意され、寄せ書きのノートや、棺に入れるための鶴を折れるように折り紙が用意されていました。早速息子はお義母さんにせがんで鶴を折ってもらっていました。
●葬儀を取り仕切ってくれる葬祭ディレクターの方に挨拶し、奥さん、妹とともに今日明日の段取りを確認します。このディレクターの女性がものすごくてきぱきと仕事を進める方で、見事な仕切りに感動しました。われわれへの説明も、不安や疑問に先回りして的確な内容を告げてくれるだけでなく、何か選択しなければならない場合には、それぞれの選択肢の意味や、平均してどのような選択をする方が多いのかなど、期待通りのアドバイスをしていただいたので、いらんことに気を使うことなく、葬儀に集中することができました。
●どんなところにもプロフェッショナルはいるもんだと感心しました。感心しているうちに、噂の納棺師の方が到着しました。死後4日、低温で保存していただいていたとは言え、顔色のすぐれない(当たり前だって)父の顔に、死に化粧をしていただくわけです。で、こちらの手際のよさにもまた非常に感心したわけなのでした。


(相変わらずなかなか進みません)

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<コピーライターへの道23>

■小さなプロダクションに転職後、印刷原稿の制作は急速にデジタル化していきました。しかし、すべての印刷会社がデジタルで入稿できたわけではなかったようで、出来上がったデジタル原稿から紙焼きを作り版下用紙に貼り付けて入稿ということも多々ありました。
■何と言っても、ビジュアルの素材である「写真」や「イラスト」のデジタル化が進んでいなかったということもあります。デジカメもようやく民生品が出始めたころで、私のいたプロダクションも、記録用にSONYのMavica(フロッピーに記録するやつ)を購入して使っていました。
■インターネットも今のような状況ではなく接続はもちろんダイヤルアップ。代理店やお客様にPDFを送って確認なんて夢のようなことができるはずもなく、外注のデザイナーさんとイラレデータのやり取りを行うのが精一杯。それもNiftyServeのメールを利用してのものでした。通信状況が安定していたからだったろうと思います、確か。
■初期のころ、PCを使ってデザインした印刷物や雑誌などのページは一目でわかったものです。フォント(字体)に制限があり、詰め(文字間の微妙な調節)も技術的にできなかったと思うので、なんとなく誌面がまばらと言うか、素人っぽかったのですが、その後イラレやフォトショップの進化は目覚しく、従来の版下と区別がつかなくなった、と言うか、すべてがデジタル制作になってしまったと訳で、デジタルも何もなくなってしまったわけですね。
■いつしか印刷会社もデジタル入稿に対応できるようになりました。一番最後まで印刷原稿としてのデジタル化に時間がかかったのは「写真」だったと思います。印刷のクオリティに対応できる画素数や画質のカメラをはじめとした機材の開発には、その時点ではまだ時間が必要だったんでしょうね。
■そんなことをしているうちにも、崩壊したバブルの波は、じわじわとわれわれのところに忍び寄ってきていたのでありました。

(ぜんぜん続く)

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葬儀には参列したいんだけど…

●月曜日の通夜、火曜日の告別式を控え、前日の日曜は出かける必要もなく、連絡や細々とした準備をしながら過ごしました。葬儀後のいろいろな処理や父の住まいの片付けなども考えなくてはなりませんが、だめですね、こういうときは。意識がぜんぜんそっちに向かない。
●こんなときはやはり女の人のほうが強いのかもしれない。妹は、必要な役所の手続きや、住まいの片づけをお願いする業者の下調べなどを着々と進めてくれていたんだから大したものです。こっちはお経を上げてもらうお坊さんへの四十九日のお布施をいくらにしようなんてことで頭がいっぱいなんだから情けない。
●葬儀についてお知らせをした親族のうち、何名かから連絡が来ました。ひょっとしたら、と思っていましたが案の定「ちょっと葬儀には行けそうもない」という内容でした。父の兄弟、そして亡くなった母の兄弟のうち何人かの方が、体調に不安があり、参列いただけないことになりました。
●特に父のすぐ下の弟さん(私の叔父さんですね)は、「本当に申し訳ない。勘弁してくれ。足の具合がどうにもならなくてなあ…」。電話の向こうから聞こえる涙交じりの声に、父が死んでから初めて私も泣いてしまいました。年も近く、兄弟も亡くなっていく中、一番親しい付き合いをしていたので、悔しかったんだと思います。
●連絡をもらって、初めて闘病中だったことを知った親戚の方もいました。落ち着いたら、一度皆さんのところを尋ねないといけないなあ。そう思いましたが、いまだに実行できていません。いかんなあ。少しずつでもいいから必ず実行していこう。今これを書いていてそう思いました。まずは夏休みにでも叔父さんの所に行くとしようか。

(続く)

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<コピーライターへの道22>

■前回の<コピーライターへの道20>の最後のあたり、別の下書きが混じってわけのわからん文章になっていたのに気づかずアップしてしまいました。遅まきながら修正いたしました。

■さて、前回のそのあたりに書きましたが、版下時代の印刷原稿作りは、その途中に何度か「待ち」になる時間がありました。
■当時私が担当していたある企業の新製品の情報誌の制作過程は、概ねこんなことになります。

①取材→②(誌面構成は大体決まっているので)原稿作成→③社内のチェックを経てデザイナーがレイアウト→④写植の指定→⑤写植の発注(外部)⑥図面などあればこれも発注⑦写真原稿があれば、キレイに印刷できるようエアブラシで処理したり周囲を切り抜き処理を行う会社に発注⑧イラストなどあればイラストレーターに発注→⑨上がってきた写植をチェックして、OKならばレイアウトに合わせて切り貼り→⑩写真やイラストも大きさを指示できるものを版下に張り込み→⑪原稿チェック(社内)→⑫原稿/レイアウトチェック(代理店・クライアント)→⑬修正→⑭再校チェック→⑮問題なければ色指定して入稿→⑯印刷屋/製版屋で製版→⑰色校正出し→⑱色校チェック→⑲修正→必要あれば再校出し→⑳チェック→21 OKなら印刷→22 製本→23 納品 ああくたびれた。

■細かく言えばもっといろいろありますが、それでもこれだけの工程がありました。この中で、コピーライターは③④⑤⑥⑦⑧、デザイナーも⑥⑦⑧の作業があがってくるまでは待ち時間。その間に別の仕事を組み込んで処理したりもするのですが、アイデアの元を仕込んだり、ブレストしたり、町に出ていろいろ情報に触れたりしてました。映画見に行って帰ってこない、なんていう先輩もいました。
■PCによるDTPが発達した結果、③のあと、印刷入稿までの作業は、ほとんどすべてデザイナーがPCの前でできる(=やらされる)ようになってしまいました。

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葬儀の準備は続きます。

●葬儀の枠組みは決まりましたが、こまごまとしたことを山のように決めていかなければなりません。祭壇の飾りつけのこと、花の量と種類、棺の種類、お通夜の振る舞いの内容、会葬御礼の内容、告別式でお出しする食事(昼時でした)などなど。
●このあたりまでは想像の範囲でしたが、それを少し越えていたことが3つばかりありました。最近の葬式はこうなっているのかと。
●1つ目は、「演奏はいかがいたしますか?」。葬儀と言えば、導師の読経の流れる中、粛々と焼香の列が続く、というイメージだったので、聞かれたときは「へ?」という感じでした。聞けばエレクトーンの演奏のサービスがあるとのこと。「皆さんご利用いただいています」とのことなので、お願いすることにしました。結果としては、良かったかな。とても和やかな雰囲気になりました。
●2つ目は写真。受付の辺りに、故人の写真を引き伸ばして飾り、参列者の方に在りし日を偲んでいただけるコーナーを用意できるということで、父の住まいから持ってきていたアルバムから、母と一緒に写っている写真をチョイスし、飾っていただきました。遺影を用意するときに一緒にプリントしてしまえばそれほど手間もかからないということなのかな。メッセージノートもあり、皆さんからメッセージをいただきました。
●3つ目は会葬御礼に載せるメッセージ。「このたびは故人のためご参集いただき云々」という定型的なものではなく、「オリジナルのメッセージを、コピーライターが取材して作成します」という説明を斎場の方がし始めたら奥さんが笑い出しました。「うちの主人もコピーライターなんです」といったら斎場の方も絶句。よろしくお願いしますと言って、取材を受けることにしました。つやの前々日に電話で取材を受けましたが、私のことは伝わっていたらしく、心なしか声が緊張していました。
●完成したメッセージはさすがに一味違うもので、参列した同僚のコピーライターから「自分で書いたんですか?」と聞かれました。
●どんな商売でもみなさん工夫されているんだなあ、ということを実感する機会でした。

(続きますよ)

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<コピーライターへの道21>

■件のプロダクションに移籍した当時は、広告制作が完全にデジタル化する前の「端境期」で、版下とDTPが入り混じっていました。
■もう「版下」というものを知っているデザイナーも少なくなったでしょうね。版下用紙という厚い紙に写植という文字を印画紙に焼き付けたものを切り張りし、印刷する紙面の形を作ったものです。これにトレーシングペーパーを重ねて、あるいはコピーを取って、色をつけたい部分に色鉛筆などで「色指定」を行い、印刷屋さんに入稿します。イラストや写真は「アタリ」という、配置したい大きさを指示したものを版下に貼り付け、写真などは別途印刷屋さんに入稿します。
■入稿する時点で、完成されたデザインのイメージがあるのはデザイナーの頭の中だけです。「色校正」デザイナーの意図したところが見える「形」になるんです。
■もちろん版下や色指定の段階で代理店やお客様のチェックは受けますが、本当のチェックは色校正が出た時点です。そこまできて修正を行うのは、作業の無駄もあるので極力避けたい。この気持ちは関係者すべてが持っていたと思います。
■しかし、昨今のデザイン制作の工程はすべてがデジタル化され、容易に修正したり、以前の作業段階に簡単に立ち戻ることができるようになり、修正の指示が入れやすくなりました。その分、修正指示が増えたように思います。「すぐ直るでしょ」という考えがデフォルトになったようです。
■修正のことを考えると便利にはなりましたが、その分制作スタッフの負担は増えました。またお客様は、制作の早い段階から具値的なデザインイメージを求めるようになってきました。もちろん、昔も、完成したデザインイメージを伝える手段として「カンプ」というものをつくり、代理店や関係会社、あるいは世間に向けて制作していました。
■カンプを作るにはアナログ作業が多く、職人的な世界があり、広告を依頼する企業や代理店の人材も、専門的な知識や経験を持つ人が多くいました。
■作業も分業で、各工程の合間には作業待ちの時間があり、その間に町に出てアイデアを仕込んだり、リフレッシュすることができました。そんな制作スタイルは、PCによるDTP技術の発展により、徐々に変わってくるのでありました。

(つづきますよ)

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友人が弔問に来てくれました。

●父の一件の続きです。色々書き散らかしていたら自分でも何を書いているかわからんようになっってしまいました。

●父が亡くなった日の深夜、高校時代からの友人の一人にメールで事情を知らせていました。高校から付き合い続けている友人は結構多くて、年に数回会っては馬鹿な話をしながらお酒を飲んだりしています。中でもメールをした友人は、それほど頻繁に会うわけではないのですが、うちの奥さんがかつて彼の部下っだということもあり、付き合いが濃く、最近では親戚づきあいのようになっています。息子が生まれたときも駆けつけてくれました。
●「土曜日線香上げに行きたいんだけど、いいかな。葬儀には行けなくて申し訳ないけれど」というメールが金曜日の朝届いていました。彼は現在茨城在住なので、ほぼ一日仕事です。昼前には到着するようなので、その前にいくつか用事を済ませ、葬祭場に向かいます。
●駐車場で待つことしばし。ジムニーに乗って友人が現れました。彼のお父さんが亡くなったのを知ったのは、葬儀の後、かなり経ってからでした。当時、私の方は母親が病に倒れてドタバタしていたので、気を使って知らせなかったようです。そんな話をしつつ霊安室へ。すでに何度か父の顔を見に来ていた息子は、得意げに階段を上り、霊安室まで先導していきます。
●その後、近くのファミレスで飯を食いながら近況報告。彼のお嬢さんはそろそろ大学を卒業して就職、という年回りです。私も赤ん坊の時から知っているので、時の流れを感じるばかりです。
●彼を見送って自宅に戻り、一度実家に戻る奥さんのお母さんをお送りする用意。この時たまたまスポット的に不動産屋で働いていた奥さんは土曜日ですが出勤。退勤後に駅で合流し、お母さんをお見送りすることになりました。何度も往復していただいてすみません。でも、助かりました。

(なかなか話が進まない)

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<コピーライターへの道20>

■当時の私は「もっと稼ぎたい」と顔に書いてあったんじゃないかと思いますが、とにかく母の病気治療がこれからどうなっていくのか、心配で仕方ありませんでした。
■そんな私に声をかけてくれたのが、当時在籍していた会社で何度も一緒に仕事をしていたAD。その前に働いていたプロダクションの社長に呼び戻されるような形で移籍することを決めていました。ある業態の会社1社の広告を専門に制作するプロダクションで、「仕事は安定して受注できているけど、ちょっとコピーのキャパが足りないんだよね」という状況のようでした。
■後に私が移籍していったときの体制はADのほかデザイナーが3名。コピーライターが私を含め2人。あとは社長と経理担当の女性が一人。後にデザイナーが4人(一時5人のこともあった)、コピーライター3人(ひとりはアシスタントレベルでしたが)にまで増えたので、まあ、順調に業績を伸ばしていた会社と言えるでしょう。
■何度か面接を行い、仕事の内容を確認し、こちらのことも知っていただいて、お給料もありがたい金額を提示していただいたので(バブルえらい!)、1993年の3月からこちらのプロダクションで働かせていただくことにしました。「金銭的に母の病気に備える」という転職の目的は一応叶えられたことになります。
■辞めることになった会社には11年と11ヶ月お世話になったことになります。私が抜けたことで、11人いた同期は4人を残すのみになっていました。仕事もあちこちでギクシャクしていたので、あまり引き止められた覚えもありません。その後の状況から考えると、会社としても「渡りに船」だったのかもしれません。
■ただ、総務の責任者から、「あと一ヶ月いれば退職金が違うのに」と言われたのを今でも覚えています。腹が立ったんでしょうね。「金じゃねえよ!」なんてね。若いっていうのはしょうもないですね。今なら迷わず12年勤めて辞めますね。人生まず金です。夢や希望はその上に乗っかってるんだということがようやく分かったわけです、いい歳して。
■3月の半ばでしたか、新たな職場に通い始めました。最初の仕事は自分のPCを決めて発注すること。もちろんMacです。機種はLC575。当時最新最強のエントリーモデルでハードディスクは160M(Gじゃないよ)でした。

(もちろん続く)

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<コピーライターへの道19>

■1992年3月、母が突然倒れました。就寝中に脳梗塞を発症し、朝方それに気づいた父が救急車を呼び、病院に搬送しましたが、その時点で致命的な部位に梗塞があり、その時点では既に意識も戻らず、当時の医師の判断では時間の問題だろうという判断でした。
■しかし、まだ59歳だった母の体力が勝ったのか、何とか意識を取り戻しリハビリに取り組めるまで回復。後に15年の長きにわたって病気と戦ってくれたのでした。
■しかし倒れた時点ではそんなことはわからない。とにかくなんとかしなくてはという気持ちで、日々変化する母の病状に対応するばかりでした。
■気がついたら父はさっさと仕事を辞めていました。「俺以外誰が看病するんだ」という意気込みでしたが、じゃあお金はどうすんだ、と言うのが子供としては正直なところ。しかし辞めちまったものはしょうがない。母の病状が落ち着くにつれ、「もっと稼げる仕事につかなくちゃならんな」と思い始めていました。
■バブルは弾けていたとは言え、直接の打撃はまだ当時務めていた会社には及んでいませんでしたが、業界としてはなんとなく縮小に向かってる感じがしました。事実その後、当時務めていた会社には銀行から人が派遣され、せっかく建てた自社ビルも手放す事態になりました。
■どうしたものか。そんな時、少し前まで一緒に仕事をしていて、今は小さな制作プロダクションに移っていたアートディレクターから声が掛かりました。
■「よかったら一緒にやらない」。渡りに船とはこのことか、と思いました。

(まだ続く)

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片付けなくてはならないことも一杯です。

●葬儀の打ち合わせが終わり、ぐったり。しかし寝転がっているわけにはいかず、いろいろな案件処理に掛かります。まずはまだ連絡がつかなかったり葬儀の日程次第で参列していただけるかどうか判明する親族や関係者への連絡です。
●連絡先はまあどちらかというとご高齢で、携帯電話をお持ちでない方が多く連絡には難儀しました。病気などで転居されている方もいらっしゃって、御子息のケータイを通じて連絡が付いた、というケースも有りました。昔だったら電報を打つんだろうな。
●もう一つの案件は父が用意していた現金の扱いです。葬儀の打ち合わせの後内金として百万円入金しましたが、それでも日頃大金を持ちなれない身としてはそわそわせざるを得ない金額が残りました。みんなで相談の結果、とりあえず妹と半分づつ銀行口座に入れて管理することにしました。
●山分けにした現金を手に、こそこそと(なんとなくそういう気分になるのが不思議です)銀行に向かいます。あまり、というかほとんどATMで大量のお金を入金したことがないのでモタモタと手間取りつつ入金を完了。ひと仕事終えた気分になりました。
●次は葬儀の準備。喪服をブラッシングしたり、シャツにシワはないか、ネクタイはあったっけ、靴は汚れていないか、などなど。そんなことをしながら、合間に前日から心配して来てくれていた奥さんのお母さんを案内して、父の安置されている葬祭場に行ってお線香をあげたりしました。
●もう一つの懸案は役所関係の手続きでしたが、妹が葬儀までに父の住んでいた栃木に一度出かけて、社会保険関係の手続きを行なってくれることになりました。
●翌日は休暇を取っていないので会社へ。まあ、総務に連絡を伝えに行くようなものですが。この時点でかなりぐったりしていましたが、このあとの方がはるかにぐったりすることがたくさんあったのでした。

(つづく)

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生命保険の切り替え

■昔、会社の同僚だった女性が退職後保険のセールスレディに変身、あっという間にその毒牙、じゃなかった手腕に乗せられ保険に加入して以来、ずっと第一生命のお世話になっている。母親が倒れる寸前だったから、かれこれ20年ぐらいになろうか。
■結婚したり、子供ができたり、生活に変化があるたびにちょこちょこ見直し(失業というのもあったな)をしているのだが、今年も自分の父の死などもあり、見直して少し契約を変更することにした。
■以前の保険の入院疾病特約が、入院給付金が4日目まで出ないタイプだったのでそれを解約。新たに入院当日から給付金の出る医療保険に切り替え。1日の保証額も少しアップさせた。当然掛け金も上がるわけだが、以前背中の腫瘍を取る手術をしたとき、入院期間が4日で一時給付金も日額給付金も出なくて悔しい思いをしたので、そんな思いをしないための積立だと思って我慢することにした。
■主契約の方は、保険屋さんに言わせると「今では絶対売り出せないお宝保険」というものらしい。まあ生命保険である以上、私にとってのお宝ではないのでこれまた悔しい思いをしていたのだが、よくよく聞いてみるとある年齢まで生き延びれば年金のように受け取ることができるらしいことが分かり、ちょっと明るい気落ちになってきた。
■高い保険料を払ってきて良かった(涙)。それまで元気で生きていられるよう頑張らなくてはならないが。

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<コピーライターへの道18>

■たまには違うお話を。しばらく前に書き続けていてずっと放置してた話題ですね。

■本当に小さな広告代理店でコピーライターの仕事を始めた訳ですが、ちょうどバブルの崩壊する少し前で世の中の景気は信じられないほど良く、私の働きや能力とは関係なく会社の業績は好調。1年目の冬のボーナス(懐かしい響きだねえ)に、なんだか予想もしない金額が支給されて、社員一同大喜びしたことを覚えています(その後何かの計算ミスがあったということが発覚するんですが)。
■結局、この会社には足掛け12年在籍しました。辞めた理由はいろいろありましたが、一番大きかったのは前回の記事の終わりあたりに書きましたが、特定のクライアントを長く担当しすぎたことだと思います。
■商品開発の現場に近いところで仕事をし続けていたので、製品の技術的な知識やマーケティングに関する情報は嫌というほど身につけることが出来たと思うのですが、今から考えると、それを生かすことができなかった。ただ詳しくなっただけだったんですね。
■自分の中に蓄積した製品や企業が発信したいと考えていた情報を、どんな切り口で編集し、どんな視点で表現すれば、お客様に有益な情報提供が出来るのか。そういう提案ができていればよかったのですが、詳しくなることに汲々としていた。だから、お客様の立場になったコピーが書けていなかったんでしょうね。
■「新井さん、うちのこと知りすぎているんだよ。だからコピーがつまらないんだよ」。クライアントの担当者にこう言われたことがあります。以来、だんだん仕事がスムーズに進まないことが多くなりました。

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決断することが一杯です。

●葬祭場では、女性の担当者が色々相談に乗ってくれました。まずはスケジュールから。火葬場の予約が取れそうな日時や導引をお願いする御住職の都合など考慮して、週明けの月曜日が御通夜、火曜日に告別式ということに決めました。
●次に決めねばならんのは、何人程度の式になるかです。父の係累も、5年前に亡くなった母の係累も高齢化しており、それほどの人数にはならないとは思いましたが、かと言っていわゆる家族葬というほどでもないだろうと思われました。
●その場で住所録を取り出して人数をチェック、母の葬儀の時のことなどを思い出してある程度人数を確定し、使用する部屋を決めました。結果として当日来られなかった方も何人かいらっしゃって、その時の予想よりも参集いただいた方は少なかったのですが、それはまあ仕方がない。とにかく決めないと物事進まないんですから。
●その後も次々に決断を迫られます。棺の素材、装飾、装花、写真や葬儀中の音楽演奏など次々に種類やグレードを決めていきます。前にもこんなことがあったな、と思ったら、結婚式の準備の時がこうでした。人生の節目のイベントの時はそういうものなのかもしれませんね。
●葬儀の概要が決まったので、とりあえずの見積もりをもらい、内金を支払って今日の打ち合わせは終わり。今度は決めた内容をお寺の御住職や親戚や友人、会社関係に連絡しなければなりません。あまり使わないので自宅のFaxをやめてしまったのですが、この時ばかりは後悔しました。電話で葬祭場の場所を説明するのは、ちょっと大変だったからです。

(続きます)

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父を安らかに送り出すために

●日本代表、なんとか決めてくれましたね。ニュースで映像見てたら結構押してたんですね。まあ、やれやれ。

●さて、続きです。前日一日、いろいろなことがあり、移動距離も長かったのですが、気が張っているせいか、朝目覚めてもあまり疲れは感じませんでした。支度をして、葬祭場に向かいます。
●おっとその前に、葬儀の導引をお願いする方に連絡しなければなりません。母が亡くなったときにお世話になり、戒名をつけていただいた川崎市中原区にある真言宗のお寺の御住職です。母のために墓を用意したとき、墓苑から紹介していただきました。
●依頼は快諾いただいたのですが、ちょうどお寺で毎年開催している節分の豆まきを控えた時期で、とにかくお忙しいとのこと。とにかく可能なスケジュールをお聞きして、葬祭場に向かいます。
●スケジュールとともに気になるのが、やはり「御布施」です。母の時とはお願いする内容が違うのでどうしようか、悩みました。しかし、こちらで考えていてもしょうがないので、思い切って電話の最後に御住職に聞いてみました。「どれぐらい考えておけばいいですか?」
●答えは明確。「全体の金額の中で考えましょう。葬儀費用はわかってるの?」「いえ、これからです」「じゃあそれが分かったらまた電話で相談しましょう」。ということに。
●そういえば、母のときもそうだったことを思い出しました。葬儀は両親が住んでいた栃木で行い、戒名と納骨の法要をこちらの御住職にお願いしたのですが、その時も葬儀費用を尋ねれられ、それと釣り合う金額として「これぐらいでどうですか」と提案してもらいました。全く、重要なことから忘れていきますね。
●御布施は?と聞くと「お志で結構です」と言われて往生した、という話をよく聞くので、こうやって具体的に話をさせてもらえるのはありがたいです。ありがたい、ありがたい、と言いながら葬祭場に向かいます。妹が既に来て待っていました。

(どんどん続く)

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葬儀の準備

●父の遺体を載せた車を先導し、東北道から首都高速、東名を経由して自宅に向かいます。途中2度ほど休息し、葬祭場の場所などを打ち合わせましたが、高速のインターチェンジを出たところで渋滞に巻き込まれ離れ離れになってしまいました。
●葬祭場に到着したのは7時ごろだったでしょうか。着いてみると、既に父を載せた車は到着していました。葬祭場のスタッフに確認したところ火葬場の予約が時間的にまだ取れておらず、細かいスケジュールなどの打ち合わせは翌日に行うことになりました。
●父の遺体は、保冷機能のある霊安室に安置してもらい、搬送サービスの精算を済ませて一旦自宅へ。奥さん、妹と今後の段取りの確認をしました。
●父が亡くなる、という事態を受けて一番気になっていたのは、やはりなんというかその、「お金」の問題。入院もしていたので、その支払いも心配でした。しかしありがたいことに、父は自分の状況を予想していたのでしょうか、現金を用意してくれていたのでした。
●最後になった入院にあたり、付き添いに行った妹にある程度まとまった現金を用意してくれていたのですが、一度父の住まいを訪れて少し探してみると、おいおい、こんなに現金を自宅に置いとくなよ、という額の現金が出てきました。
●まあ、病院の支払いを済ませ普通に葬儀を行える程度のお金は用意できたので、あとは必要なことを決めるだけ、というのは精神的に楽でした。
●ただ一つ、葬祭場の担当者から「葬儀の導引をお願いするお坊さんを決めておいてくださいね」と言われていたのですが、これが課題でした。お寺の檀家になっているわけじゃないし、またあの方にお願いするしかないね、ということでこの日は解散しました。

(つづきます)

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家族がひとり亡くなるということ。(2)

●父の遺体を神奈川まで運んでくれる搬送サービスの会社と時間的な打ち合わせをして、一度父が暮らしていた住まいに向かいました。前回、食事に、と書きましたが、ひょっとすると食事どころではなかったのかも知れません。住まいのある施設に常駐しているスタッフのみなさんに状況を伝え、お礼を申し上げ、今日のうちに遺体とともに神奈川に向かわねばならないことをお話ししました。
●突然の話でみなさんを驚かせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。特に、父が一番親しくさせていただいていた女性のスタッフの方がシフトの関係で不在で、父と対面していただくことはおろか、葬儀が終わってしばらくして住まいの片付けに伺うまでお話もできず、まあ、何ともお詫びの言葉もない有様でした。父が亡くなる前日に病院に見舞っていただき、父と最後のの言葉を交わされていたことを聞き、「一度この部屋に戻っていただけると思ってたんですよ。残念でした」と言われた時は、妹と二人、半泣きで謝りました。
●病院に戻ると、父は霊安室の方に移されていました。妹と二人、初めてのお線香を上げました。病棟の婦長さん、担当の看護師さん、そして主治医の先生も、お線香を上げに来てくださいました。死亡診断書をいただき、時間通りにやって来た搬送サービスの車に父の遺体を乗せ、私の家へと向かいます。
●役所への届けや社会保険、年金などの手続きなどやらねばならんことが頭の中でぐるぐるしていましたが、まずは葬儀です。奥さんに電話して父の受け入れを葬儀場にお願いしてもらい、車をスタートさせました。

(またつづきますね、申し訳ない)

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ハルマヘラ・メモリー

20130602_2
◆池部良さんという俳優さんをご存知でしょうか。惜しくも2010年に92歳で亡くなられましたが、戦前から映画俳優として活躍し、太平洋戦争では招集されて幹部候補性として中国北東部へ派遣され、終戦間際には決戦兵力として南方へと転身。移送中の輸送船が敵潜水艦に撃沈されてセレベス海に投げ出され、海面を漂流後、日本海軍の艦船に救出され、インドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属され、上官がすべて他島へ移動してしまったため、当時少尉ながら衛生隊本隊を任され終戦まで戦うという経験がありました。
◆復員後、映画界に復帰して長身、美貌の二枚目俳優として長く活躍されました。高倉健さん主演の「昭和残侠伝」などへの出演でも知られています。
◆文筆家としても知られ、1991年には毎日新聞連載のエッセイ『そよ風ときにはつむじ風』で「日本文芸大賞」を受賞し、小説作品などもモノしています。
◆写真で紹介した「ハルマヘラ・メモリー」も池部さんの作品の一つ。軍隊での経験を元にしたフィクションとのことですが、これがまた面白い。人間関係のディティールや、「命賭けて戦ってんのになんでそんなくだらんことにプライド持ってこだわってんだ」と思うような軍隊内部の上下関係に発するトラブルなどが、ある種飄々したタッチで描かれていて、あっという間に読んでしまった。戦時中の日本に興味がある方には是非オススメしたいです。

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