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父亡き後(4)保険金の受取人は誰ですか?

●父の生命保険金受け取りのために必要な書類を調べるため、かんぽ生命のサイトに行ったら、「相続のてびき」なる冊子がpdfでアップされていました。後で聞いたら郵便局の窓口でももらえたようですが、早速ダウンロードして読み込みました。
●「相続とは」というところから書かれていたので、これはわかりやすい、と思ったのですが、慣れない人間の悲しさ、説明を読み進めるうちに「相続人」やら「被相続人」が入り混じり、相続順位やらなにやらわからない言葉が増えすぎて、一気に血圧が上がります。
●この「被」というのがどっちだかすぐにわからなくなります。「保険者」と「非保険者」とかね、誰かわかりやすい用語を発明してくれんかな。こういうことの処理を生業にするのは本当に無理だね、と思ったわけですが、何とか「必要書類」までたどり着きました。
●いろいろなケースが例示されていましたが、うちの場合「保険金の受け取り人が亡くなられた場合」というやつでした。5年前に母が亡くなって以来、父の保険金の受取人は「本人」のままだったからです。受取人を私に変更しようと昨年父と話していたんですが、そのままになっていたのでした。
●必要な書類は、①保険金支払請求書 ②保険証書 ③相続人が確認できる書類(戸籍抄本など)←すべての相続人が確認できる書類が必要なんですね、これが。 ④手続きをする人の身分証明書(運転免許証、健康保険証など) ⑤手続きをする人の印鑑 ああくたびれた。
●このほかにも、死亡証明書、入院証明書、非保険者の生年月日が確認できる書類が必要だってんだからもう、とにかく集められるものから集めよう、と思ったのですが、その後に行うことになる郵貯やJAの口座の解約に必要な書類も一緒に集めた方が効率的だよな、と思い直し、いい加減疲れていたので、奥さんに手伝ってもらいながら、必要書類の確認に取り組むのでした。

(続きます)

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父亡き後(3)生命保険金を受け取るには?

●まず何から後始末を始めたらいいのか、途方に暮れていた、というほどではないのですが、ボーっとしていたら、妹がいろいろと情報を仕入れてきてくれました。
●父が持っていた口座は、郵便貯金が普通と定期。地元のJAに普通をひとつ。あと、簡保の生命保険にひとつ加入していました。このあたりの状況は、一昨年頃から父と話し合い、全部ノートにまとめつつお互い確認していたので、一応把握できていました。
●しかし実際に処理を行おうとするといろいろ出てきます。妹は、父の住んでいた町の市役所に手続きに行ったついでにJAに赴き、手続きやその段取りを聞いてきていました。それでわかったのが、生前使っていた口座は、亡くなったからといってすぐ解約しないほうがいいということ。
●実際、JAの口座は、父が住んでいた住居の家賃の引き落とし用だったわけですが、片付けのために1ヶ月ほど解約をしなかったので2月分の家賃が発生したりしたわけです。
●郵便局の口座も、公共料金の引き落としに使用しており、解約解除に伴う返金や、すでに引き落とされていた社会保険料の返金などがあり、確かに口座をすぐに解約するわけには行きませんでした。
●じゃあ、そのときできることはなんだったかというと、生命保険の死亡保険金の受け取りです。で、父の用意していた保険証書を見て愕然。受取人が「本人」のままじゃないですか。これで相続人代表として私が保険金を受け取るための書類が増えることになりました。受取人を変更して置けばよかった。
●簡保のWebサイトで必要書類を確認し、保険金をゲットする準備に入ったのでした。

(続きますよ)

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父亡き後(2)

●父親の葬儀が済み、日常にはある程度落ち着きが戻りました。しかし、片付けなくては、いや、片付けると言うのはどうかな、処理と言うのもあんまりか。まあ、とにかくいい言葉が思い浮かびませんが、居なくなってしまった父の代わりに、父と社会との接点の後始末をなんとかしなくてはなりません。
●まずは、役所関係。住民登録や戸籍に関する手続きですね。これは、死亡診断書を
葬儀屋さんを通じて私の住んでいた市の役所に提出してもらい、それがあちこちに回って処理されたということのようです。
●次は、社会保険関係。年金、健康保険、介護保険などは父の住んでいた市の役所への届け出が必要でしたが、これは、たまたま事情があり時間のあった妹が、てきぱきと進めてくれていました。
●5年前に母が亡くなったときは、障害者認定を受けていたこともあり、いろいろとほじょをうけていて、その停止手続きが煩雑だったおぼえがありますが、父は最後まで元気でいてくれたお陰で、そのあたりは楽だったようです。
●届けを出すだけですむものは、まあ簡単済むわけですが、これが、「お金を引き出す」「お金をいただく」という案件になると、いきなり、何やら色んなハードルが立ちはだかって来るわけです。全く困ったもんですが。

(続きますとも)

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父亡き後(1)

●父の葬儀からそろそろ半年がたとうとしています。まだ半年か、と思うぐらいいろいろなことがありました。役所に出向いてあれこれ申請したり、金融機関と交渉するのが苦にならない人には何てことないのでしょうが、そういうことになれない私としては、ひどく厄介な日々でした。
●えーと、何から書けばいいのやら。ちょっと頭の中と記録を整理して、進めて行こうと思います。

(早くも続く)

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<コピーライターへの道29>

■前回書いたように、7ヶ月の間、不安定な身分のまま、怪しい会社にありがちなワンマン社長となぜそのような権限を持っているのかわからない取り巻きの皆さんに振り回され、「辛いよう、辞めたいよう」と毎晩泣きながら暮らしていたのですが、一つだけ良いことがありました。
■自社媒体の活用法とメリットを提案し、スペースを購入してくれたお客さまのために原稿を作成する上で欠かせないのが「制作進行」。飲食店や美容室、エステやマッサージ店が主なクライアントで、お店のサービスやそのときに実施しているキャンペーンなどを告知する誌面を、短時間で取材、撮影、構成、原稿作成、デザイン作成指示、クライアント確認、修正、入稿まで行うわけです。一部クライアントでは料金の提示、交渉までやっていたので、そういう面では経験が積めたし、力もついたのではないかと思います。
■それ以前は、お客様のところで打ち合わせをすることはあっても、取材、インタビューを行ってそれを原稿として形にすることはほとんどなかったので、この会社の経験で、取材の段取りや原稿作成の仕方など、ノウハウが身につき、なんでもずけずけと聞ける度胸がついたのは良かったと思います。
■その後移った今の会社で、最初メインの仕事になったのが(というかその仕事のために採用されたようなものですが)、さる重厚長大メーカーのお客様向け情報誌の制作。そのメーカーの製品をお使いいただいているお客さまのところに赴いてお話を伺うということが多かったので、ブラック会社とは言え良い経験ができました(と無理やり思い込んでいる節はありますが)。
■解雇されたあとは、フツーの失業者の暮らしです。ハローワークに出かけて失業給付の申請をし、希望の職種(もちろんコピーライターですが)を申し述べて求人を探しました。もっとも居住地のハローワークでは「あなたの希望の職種の求人なんかないですよ」と一蹴されましたが。
■当時はまだ奥さんも元気でフルタイムで仕事をしていたこともあり、また次の仕事もほぼ決まっていたので、割とのんびりと健康保険や年金の切り替え手続きをしたりして過ごしていました。奥さんも多少は気を使ってくれ、「たまには旅行でも行こうか」と言ってくれて、長野、白馬方面に2泊3日で出かけました。
■このときの開放感と言ったらなかったなー。もう一度ああいう気分を味わいたいけれど、年金支給もどうなるかわからない今、まず無理だろうな~。もはやコピーライターへの道でもなんでもなくなっていますが、こんな経験を経て、業界の片隅でコピーだか何だかよくわからないものを書き続けてきたというわけです。

(とりあえず一度終了します)

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<コピーライターへの道28>

■件の会社には、私と同時期に入社した人も含め、自社メディアを販売する役割の「営業」担当の社員がかなりの人数が入ってきていました。しかし、最初のうちは毎日顔を見ていた人が、気がつくといつの間にか顔を見なくなるというケースがちょくちょくありました。
■まあ知名度もないメディアだし、どうも人数確保のためにあまりこの手の仕事の経験がない人もやる気があれば採用しているようでもあるし、ある程度仕方ないのかと思っていましたが、それにしてもちょっと多いな、と気になるようになってきたんですね。
■そのうち、何度か仕事を一緒にした営業の中からもフェイドアウトして行く連中が出始めます。消えて行くのは男性が多く、残っていた女性営業の何人かと話してみると、中にはまったく仕事がとれず辞めていった人間もいたものの、いつまでも正式採用されないことに不安を持ち、ほとんどが会社を去っていったようです。まあ、その後私もそういう理由で離脱を図ろうとしていた矢先に首になるわけですが。
■不安を感じてやめる人もいましたが、そうでない人もいたようです。聞いた話ですが、営業日報に記載された営業先に経営陣が電話をかけて、日報を出した営業が本当に訪問していたか確認し、少しでも日報と異なると、それをとがめて退職させたとか、アポとアポの空き時間を利用して私用を済ませたことをとがめて、ということもあったようです。(そんなこと、私もやってましたがな)
■入社して半年ほどたった頃、なかなか進展しないある案件にかかわっていたのですが(利用できるリソースについて社長が一顧だにしてくれなかったので、私もあきらめてましたが)、その責任を私にとらせるような出来事が多くなり、エーいそういうことなら、といくつかの転職先を当たり、来週は面接ウィークだ、と思っていた忘れもしない2000年7月7日金曜日、人事総務を担当している女性から呼び出され「あなたとは契約できません。本日を持って解雇します」と告げられました。
■振り向いたらダンボールに私物を詰めたガードマンが立っていた、なんて話がアメリカの会社では良くあるらしいですが、私の場合はまだそれほどドライではありませんでしたが、その翌々日、日曜日を指定され、一人出社し、その女性の監視の下私物を片付けました。
■結局7ヶ月、まあ仕事はそれなりに面白くできましたが、身分も人間関係も安定しない環境で働くのは堪えました。首になった次の週、今勤務している会社への採用がほぼ決まりました。あと一週間早ければ、と思いましたが、その場合こちらから辞表を出していたわけで、すぐに失業給付が受けられなかったので、あれでよかったのかな、と今になっては思います。

(続くよなあ…)

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<コピーライターへの道27>

■働いていたプロダクションの社長から解雇を告げられてから1ヵ月半ほど。在職のまま次の仕事を探していたわけですが、何とか入社できそうな会社が見つかりました。とは言え最初の面接でいきなり「しばらく仕事してもらった上で適性を判断したい。いつから勤められる?」と社長から聞かれるなど、よく考えれば「初手から怪しい」会社であったわけですが。(いきなり社長面接ってのもどうなんだ?)
■まだ存続している会社なので(なんてこった)あまり具体的なことは書けないのですが、私が体験したこと、あるいは実際に見たことを挙げてみます。
■試験的に2週間ぐらいだったかな、勤務した後、「試用期間」ということになりました。仕事は自社媒体をクライアントに売り込み、契約が取れたら掲載する広告誌面を提案し、制作するというもので、自社媒体の知名度がまったくないのでその点苦労はしましたが、やること自体は今まで経験したことであり、何とかやって行けるだろうと思いました。
■試用期間に、と言われたので、会社もある程度「使える」と思ったのだろうと考えていました。11月の初めから3ヶ月。そろそろ試用期間が終わる1月末になっても正式契約の話がありません。同時期に入社していた営業セクションの連中と話してみても同じような状況だったので、社長に話をしたところ、「まだ正社員の働きじゃない」だと。
■そんな話でしたか?と言ってもまともに取り合ってくれません。いろいろ言い訳をしつつ、「あと1ヶ月様子を見よう」と言い出しました。う~ん、これはどうも、と思い職探しを再開するわけですが、結局この年の7月に解雇(今考えても悔しいぞ)されるまで、正式契約にはいたりませんでした。何だったんだ一体。
■そしてこういう体験をしているのは決して私だけではなかったのでした。

(続いちゃうか)

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<コピーライターへの道26>

■前回も書いたように、1999年当時、バブルは弾けたとはいえ小泉純一郎が首相となり自民党と一緒に日本経済をぶっ潰す前で、現在よりは広告関係の求人は活発に行われていたように思います。
■宣伝会議やブレーンなどの求人広告スペースも、今のように申し訳程度についているものと違い、充実したものでした。もっとも、Webに移行したという事情もありますが。
■それらの求人広告に応募をするわけですが、なかなか結果が出ません。理由の一つは、前職での仕事の幅が極端に狭かったこと(なんたって一社ですから)、もう一つは年齢。「40歳」というと、当時でももう転職の限界を超えているという印象でした。しかし、年齢そのものよりも、「40歳だと結構な給料を要求するだろう」と採用側が思っていることが障壁になっていることが、何社かと面接をするとわかってきました。こちらとしてはそんな無茶な要求をするつもりもなく、とにかく仕事を得ることが第一義であったのですが。
■結局、3社ほど面接まで呼ばれたのかな。骨董通りにあった制作プロダクション。その後今の会社で仕事をすることになる中堅代理店。そして、青山にあった各種プロモーションを行う会社でした。
■「何とかなるじゃん」。そんな甘いことを考えた罰が当たったのか、その後そのうち一社に入社したわけですが、まあ、そこでえらい目に遭うことになるわけです。

(続くのだ)

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告別式となりました。(2)

●火葬場の職員の方の先導で、父の遺体の入った棺が炉の前に運ばれます。導師のご住職の読経と、参列していただいた皆さんの合掌に送られ、棺は炉の中に入っていきました。淡々と時間が流れていく。火葬場に来るたびに、いつもそんなことを感じます。それほど経験があるわけではないですが。
●みんなで別室に移動し、簡単な食事を摂りながら終わるのを待ちます。久しぶりに会った従兄弟から、ご主人のお母さんの、ちょっとユニークと言うか、そんなありきたりな表現には収まりきらない行状についての話を聞き、まあ、こんなところでなんですが大笑いしました。本当にそんな人がいるのか、と思いましたが、「いるのよ、それが」とあっけらかんと言い放つ従兄弟(私の母の兄の娘さん)の姿の中に、かすかに母の面影を見たような気がします。おおらかで、ちょっと辛いことでも「笑い」を通じて消化してしまう。そんなメンタリティは、母方の血筋だと思います。私自身にも受け継がれているのでしょうか。
●時間が告げられ、炉の前へ。集骨が始まります。息子に父の骨を見せるのはどうかと思い、お義母さんと一緒に、別のところで待っていてもらうつもりでしたが、自分だけ引き離されるのがいやだったのか、「僕もやる」と言い出しました。
●仕方がないので、これから何をするのか、どんなものを見ることになるのか、何度も説明し、それでも参加したい、と言うので、一緒に集骨をしました。骨を見た瞬間、一瞬たじろいだように思いましたが、息子は私と一緒に小さな骨をつかみ、骨壷に入れました。
●息子が何を思ったか、どんなことを感じたか、良かったのか悪かったのか、今はわかりません。自分の祖父のことを思い出すひとつの材料になってくれればいいな、と思うばかりです。
●火葬場の職員の方によれば、父の骨はたいそう立派なものだそうです。「お父様の年齢で、これだけしっかりと骨の形が残っている方は珍しいです」。大病もなく、急に亡くなったからでしょうか、骨になってほめられるとは、父も予想していなかったと思います
●集骨が終わり、参列していただいた皆さんとも、その場でご挨拶し、お別れをしました。骨壷を抱えてわれわれ家族は一旦葬祭場に戻り、四十九日、納骨までの段取りを打ち合わせてから自宅に戻りました。
●お義父さんお義母さんには一泊してゆっくりして行ってもらいたかったのですが、「葬儀のあとは、すぐ帰るもんだ」とのことで、帰宅されました。遠くまで、ありがとうございました。
●怒涛のような一週間が終わりました。しかし、人が一人亡くなったことの後始末は、これがスタートでした。

(この項終わり)

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告別式となりました。(1)

●通夜に参加いただいた皆さんを送り出し、自宅に戻り、早々に寝てしまったようです。気がかりな夢で目を覚ましたときには6時になっていました。何かを葬祭場に持っていく必要があり、それが気になっていたようです。朝食後、何か持っていったはずなんですが、今となっては何を持って行ったのかまったく覚えていません。やはり精神状態が普通じゃないんでしょうね。
●いったん自宅に戻り、用意のできた家族を乗せて再び斎場に。念のためと思って少し早く到着したのですが、すでにご住職が到着していてあわてました。ご挨拶をしていると、告別式に参加してくださる親戚の皆さんが集まり始めていました。
●昨日は来られなかった、久しぶりに見る従兄弟の顔もありました。「こういうときしか会わないねー」「ほんとだねー」。だんだんそういう年回りになってるんですね。
●読経が始まり、また焼香です。昨日は何すればいいのかわからず奥さんに手を取られていた息子も、今日は一人で何とか形だけは焼香になっていたのに驚きました。
●さて、いよいよ火葬場に向かいます。歩いても行ける距離なのですが、霊柩車と5台のタクシーに分乗しての移動です。この霊柩車と言うのがすごかった。何とBMWのステーションワゴン。ツーリングって言うのかな。5シリーズかな。もっと大きいような気もしましたが、フロントグラスの傾斜がきつくて位牌を抱えて乗るのが大変。ハイブリッドだったようで、ほとんどモーターしか使わずに、音もなく火葬場に到着しました。

(続きます)

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<コピーライターへの道25>

■働いていたプロダクションの社長から解雇を告げられたのは9月ごろだったでしょうか。その年いっぱいで次の職場を探してほしいとのこと。現状の売り上げでは、私の給料が出せないと言うことでした。
■新たな顧客の開発に本気で取り組んだのか、とか、もう一人のコピーライター(その会社の生え抜きでした)ではなくてなぜ私なのか、など、言いたいことはいろいろありましたが、「他で通用するのはどっちかって考えたらさあ…」と言われて、妙に納得してしまったのでした。まあ、社長のその判断だけは当たったわけですが。
■そうとなれば、仕事を探さなくてはなりません。大学5年次以来の就職活動です。当時は今と比べてまだまだ求人はありました。転職雑誌(最近見かけませんね。名前忘れちゃった。あ、ビーイング)にも中途採用はたくさん乗っていましたし、宣伝会議やブレーン、コマーシャルフォトなどの雑誌の求人欄も充実していました。新聞も日曜日になるとたくさん求人が載っていました。
■私のような広告業界の求人は読売新聞に掲載されていることが多かったです。職探しの相談ができるような友人も少なく、まずはメディアに載った求人を頼りに活動を始めたわけです。
■求人広告の条件をにらんで、行けそうだと思ったら履歴書と職務経歴書を片っ端から送りつけます。同時に、転職サービスの会社にも相談し、アドバイスを求めました。最初のカウンセリングで、現状の仕事の状況などを話したところ、「クライアント1社でやってたんですか。それはキャリアアップではなく、かえってキャリアダウンですね」と言われて頭を抱えました。
■「クライアントとの関係もよく安定している」ことが転職の決め手になっていた訳でしたが、そこに安住していたら、帰ってそれが次の転職の足かせになっていたわけです。これは容易なことではないかな、と思いながら履歴書を毎日書き、投函する日々が続いていました。

(続く)

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いよいよ葬儀当日です。(3)

●導師をお願いしたお寺のご住職が到着し、奥さんと妹を伴ってご挨拶に伺います。いい戒名(だと思うんだけど)もいただきました。息子はどこに行ったかな、と思っていたら、お義母さんと一緒に折り紙で鶴を折ったり、寄せ書きのノートになにやら書き込んでいました。
●会社の皆さんにも挨拶。受付、と言うほどの人数も集まらないと思ったのですが、一応担当をお願いした同僚の女性コピーライターと若手男子2人と打ち合わせをしているうちに、ご参加いただく予定の親戚の皆さんもほとんど到着していました。
●時間になり、通夜の儀が始まりました。読経に続き焼香。そんなに大人数ではないのですぐに終わってしまいました。そしていよいよ棺を閉じるときが来ました。部屋の中心に棺を移動し、飾り付けの花を参列者の皆さんの手で棺の中に入れていただきます。息子も、何か感じるところがあったのか、神妙な顔で花とさっきから折っていた鶴を入れていました。
●蓋に釘が打たれ、小さな扉から顔は拝めますが、遺体とはお別れです。そしてかねてから用意の喪主挨拶。あまりにも急だったので、本人がこの事態を一番驚いてるんじゃないか、とずっと思っていたので、そんなことを交えて挨拶をさせていただきました。
●母の場合、脳幹梗塞で倒れ、救急車で運ばれた病院の医師に「深刻な状態なので、覚悟して置かれたほうが」と告げられてから亡くなるまで15年。ほとんどいつも「いつ死ぬかわからない」という状態が続いていたので、余計「あっという間」と思ったのかもしれませんが。
●隣の部屋に移り、簡単な食事を召し上がっていただきながら、父の様子を皆さんにお伝えしました。会社の皆さんに息子を紹介することもでき、ここまでは何とつつがなく進んでいます。さて、あと一日です。

(もう少し続きます)

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<コピーライターへの道24>

■最初に勤めた小さな広告代理店を辞め、これまた小さな制作プロダクションに移籍したのは1993年の3月のことでした。入社時11人いた同期は私が辞めたことで3人にまで減ってしまいました。早くて3年、辞めるやつは5年ぐらいで辞めていました。この業界では普通かな。11年勤めたのは長いなあ、と当時は思っていましたが、今勤めている会社はもう13年目ですからねえ。
■すでにバブルは弾けていましたが、そのプロダクションがお付き合いしていた業界には、まだその影響が波及していなかったのでした。ですから、下世話な話ですが前職より高い報酬も提示していただきました。クライアントさんとの関係もよく、仕事は安定しているはずでした。しかし、こういう考えを持つと駄目ですね。
■仕事の内容そのものはやりがいもあり、経営方面にも多少タッチすることもでき、充実した日々をすごしていました。しかし、景気の波に抗うことはできませんでした。
■年2回のプレゼンのたびに発注の本数自体が減っていき、売り上げもそれにつれて下降線をたどっていきました。新たなクライアントの獲得を、と私も伝をたどって動きましたが、「そんなことより本来の仕事をすべし」という経営者と溝ができていくと言う結末に。結局会社規模を縮小、と言うことになり、「外でがんばってくれたまえ」と言うことになりました。
■前年には結婚していました。病気の親を持つ40男のところに来てくれた奥さんのためにがんばるぞ!と思っていた矢先にこの事態。いきなりとんでもない目にあわせることになってしまったのでした。

(あまり思い出したくない話ですが、続くよなあ…)

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いよいよ葬儀当日です。(2)

●納棺士(と言っていいのかな)の方は、父の枕元に正座すると一礼し、これまたてきぱきと道具を準備し、父の化粧に取り掛かりました。父もこの年になって化粧筆で顔をこすられるとは思わなかったろうな、そんなことを考えながら作業を見ていたらいきなりお尋ねが。
●「お父様はどんな顔色でしたか?」。急に聞かれると困りますね、実際。「そうですねえ」などと言っていたら、「色白ですね、お見受けした限りでは」とのご宣託。確かに肉体労働で強い日差しに当てられて真っ黒、という人ではなかった。「よく色白ですねえ、とか言われてました」などとモゴモゴ言っているうちにも作業は進む。
●さすがに「色を失って」いた唇に若干の色が差されると、生前の面影を取り戻したような気がしました。本当にプロの技術は大したものです。
●化粧を終えると、ついに納棺です。母のときは当時の住まいでの納棺だったので家族だけでしたが、今回は早めに参集していただいていた親族の皆さんにも手伝ってもらいながらの納棺です。別れのときが近づいている、そんなことを実感する作業でした。
●納棺が終わると、棺は葬儀の行われる部屋に運ばれます。運んだのは私と葬祭ディレクターの女性の二人。かなり重かったのですが、ディレクターは表情一つ変えず軽々と運搬用の台車に載せていました。そんなプロの仕事にあっけにとられていた頃、私の勤務する会社の同僚の皆さんが三々五々集まってきてくれていました。

(相変わらず続く)

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