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自分インタビュー[0007]20200722

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●梅雨は明けませんが、夏休みはやってきますね。麒麟はまだ来ませんが。

●自分インタビュー、続けます。

 

Q 周りはどんな方が住んでいましたか?

A 新しい団地だったので、若い家族が多かったように思います。うちだって、父が33歳、母が28歳、私が3歳から4歳になる年ですからね。上の写真は入居当時の百合丘第2団地を弘法の松公園から撮影した写真。団地以外何もないような状況ですね。周りには同じような年の子供が何人かいて、幼稚園や小学校、中学校を通じて付き合いが続くことになります。中学時代、高校時代の同級生との付き合いが数年前から復活していて、幼稚園からの同級生としばしば飲む機会があります。

Q 長いですね。

A 幼稚園からだと60年近いですからね。まあ、大学、社会人での付き合いは全くなかったりするんですけど。

Q それにしてもよく付き合いが続きますね。

A ずっと地元に住んでいる友人がいて、いろいろ企画してくれるので。ありがたいですね。

Q 当時仲良しだったのは?

A 団地の同じ棟の隣の階段に同い年の女の子がいて、当然すぐに仲良しになり良く遊んでいました。幼稚園、小学校は一緒。小学校になるとやっぱり男の子と遊ぶのが面白くなって、あんまり交流は無くなったかな。近隣の団地に住んでいる連中が集まって、毎日遊びまわってました。ちょっと年上のあんちゃんがいて(おそらく中学生だと思う)、リーダーみたいになって、鬼ごっこや缶蹴りをやってました。

Q チャンバラは?

A さすがに年齢的にチャンバラは無かったかな。昔の話によく出てくる「水雷艦長」とかの遊びもなかったと思う。鞍馬天狗はもちろん、月光仮面もちょっと昔ですね。

Q アトムやウルトラマンは?

A そのあたりのテレビのキャラは小学校になってからですね。あんまりごっこ遊びはしなかったと思います。ただ走り回るだけ。団地と団地の間の芝生のスペースとか、団地から外れたらすぐ空地。遊ぶ場所だけは嫌というほどありましたからね。

Q 隣の階段の女の子は?

A やっぱり男の子と暴れまわるのが楽しみで(笑)。小学校は一緒でしたが、中学校はどうだったかな。途中で転校したような気もするな。

Q 暮らしぶりはいかがでしたか?

A 父親の仕事も変わらず、何か変わったという印象はありません。今から思えば貧乏の範疇でしょうが、ひもじかったり(笑)苦しかった覚えはないです。親は大変だったのかもしれませんが。

Q 川崎までの通勤は大変ではなかったんでしょうか。

A そうですねえ、百合丘の駅までは徒歩、小田急線で登戸まで、南武線に乗り換えて川崎。川崎駅からはバスで日本鋼管京浜事業所まで。ネットで調べたら1時間40分ぐらいかかりますね。

Q 駅までは歩きですか?

A バスもあるんですが、バス通りが迂回するような形になっていて、自宅至近のバス停は駅とは反対方向に少し歩く位置関係だったので、だったら駅まで歩こう、ということですね。我々家族も駅まで歩いてましたね。ご存知かもしれませんが、百合丘のあたりの小田急線は、多摩丘陵の端っこのあたりを五反田川に沿って、谷底を縫うように走ってます。生田も読売ランド前も百合丘も、駅のある場所が一番低くて、駅を挟んだ両側の尾根伝いに町が広がるという構造になっています。ですから、駅に向かうのは下り坂になっていて、出勤時は下っていくので楽なんですね。そのかわり帰宅時はずっと上り坂。慣れるまでは大変だったんじゃないかなあ。そして翌年になると、幼稚園に通うようになります。

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●112号棟 前面の芝生も未整備。脇の道のガードレールも未整備です。

●続きます。

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自分インタビュー[0006]20200720

●ようやく青空が見えたので、昨日は懸案だった庭の草刈りをしました。また生えて来ると思いますが。

●さて、自分インタビュー再開します。

 

Q なぜ川崎のディープ・サウス(笑)から百合丘団地へ?

A 父は引っ越した後も日本鋼管に通ってましたからねえ。マディ・ウォータースが南部の綿花農場を辞めてシカゴに移ったのとは訳が違う(笑)

Q 川崎駅の方まで通っていたんですか?

A 通勤時間は相当長くなったと思いますね。それまではバスに乗ってすぐ工場、みたいな所に住んでいたわけですから。

Q なんで百合丘に?

A 両親から聞いた覚えはないです。百合丘団地は昭和35年に開発が始まり、翌年から入居が始まりました。当時入居するには抽選があったと思うので、申し込んだら当たったんじゃないでしょうか。団地と言えば最新の設備を備えた庶民の憧れの住まいでしたからね。

Q 映画にもなりましたよね。

A 東宝映画「喜劇 駅前団地」ですね。森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺など、おなじみのメンバーが出ていましたね。映画では百合丘駅ができるまでのドタバタが描かれていましたが、昭和35年には駅も完成。新たな街づくりが本格化していたはずです。団地は完成していましたが周囲は全くの山。写真はおそらく現在南百合丘小学校のある辺りから、団地や弘法の松方面を望んだものだと思います。20200720092530

団地では犬は飼えないので、引っ越すときに保健所に託したと聞きました。殺処分ということはなかった時代だと思いますが、かわいそうなことをしました。家族も同じ気持ちだったようで、その後犬を飼うことはありませんでした。

Q 当時の百合丘の様子は?

A 真新しい街、という印象でした。駅も出来たばかり。もとは砂利置き場だったそうです。読売ランド前は「西生田」という名前で(ちなみに現在の生田は東生田でした)、西生田から柿生の間には駅が無かったんですね。スゴイな。団地の建物は新しかったけれど、建物の間の芝生や植栽などは、まだ工事が完成していないところもありました。

Q 住まいはどのあたりに?

A 最初に入居したのは百合丘3丁目にあった百合丘第二団地112棟の102号室でした。間取りは1LDK。6畳の和室、同じくらいのLD、風呂とトイレは同じスペースにありました。駅から歩いて15分ぐらいかかったかな。その後、第2団地内で一回転居しました。
百合丘団地はその後建替えられ、今では当時の面影はすっかりありません。しかし、高低差のある丘陵地に建てられていて、その高低差は相変わらず残っているので、どこがどこだかまったくわからない、という状況になっていないのはありがたいですね。

●暮らしぶりや近隣との交流などはまた次回。幼稚園のことも書きます。

 

 

 

 

 

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自分インタビュー[0005]20200718

●寒かったせいか、夜中に何度か目覚めてしまい、午前中はボーっとしてしまいました。再開します。

 

Q 他に何か思い出はありますか?

A  自分では良く覚えていないのですが、2歳の7月に死かけました。

Q え! 穏やかじゃないですね。病気ですか?事故ですか?

A 病気です。2歳だったから、1960年の7月7日に「腸重積」という病気になりました。

Q 腸重積?

A 小腸の終わりの部分にある回腸が、大腸の内部へ入り込んでしまうことで起こる症状で、2歳くらいまでの子どもによく起こるそうです。激しい腹痛と嘔吐などが見られ、血流が妨げられて腸が壊死すると、さらに大変なことに…

Q 痛かったですか?

A 私自身は全く覚えていません。この件についてはすべて後になって人から聞いた記憶です。7月7日に、伯父さん一家と平塚の七夕を見に行く計画をしていたそうです。しかし朝になってお腹が痛いと泣き出して、治まらないので七夕見物は中止。私は家でしばらく様子を見ることになりました。

Q それで7月7日と特定できるのですね。

A そうです。従妹は1歳年上なので当日の私の様子を記憶していて、後になってさんざん聞かされました。とにかく泣き方、痛がり方が尋常ではなかったそうです。

Q じゃあすぐに病院に?

A いいえ。「腹痛→冷やした→温めればよかろう」ということで、温めて寝かされていました。

Q ご両親は尋常じゃないと思わなかったんですか?

A そうなんでしょうねえ。この鈍感さは後年、妹が盲腸になった時にも発揮されました。前日から腹痛を訴えていた妹が夜中に苦しみだしたので(当時同居していました)、救急車を呼んだ方が良いのでは、と言ったのですが、「朝になってからでいい」と謎の判断で放置。しばらく様子が変わらなかったので、再度言ったところでようやく救急要請。病院についたらすぐ手術が必要な状態だったそうです。

Q 腸重積の時は?

A 医者に連れて行かれたのは夕方だったと聞いています。「温め」たのが全く逆効果。炎症を起こしかけていた腸の状況をさらに悪化させていたわけで、そりゃあ泣きわめくよ(笑)

診察した医師は「何でこんなになるまで放っておいたんだ」と怒ったそうです。すぐに手術することになり、両親は「手術の結果命を落としても異存はありません」という書類にサインさせられたそうです。

Q 危なかったですね。

A でも、後になって両親は笑いながらその話をしてましたね。もうちょっと真剣に心配してくれよ、と思いましたね。

Q 手術は成功したんですよね?

A だから今こうして生きているんですが(笑)。開腹して、入れ子になった腸をほぐして元の形に戻し、縫合ということです。幸い腹膜炎になることもなく、症状も治まったようです。ただ、結構な大きさの手術痕がお腹の右側に残ってます。癒着を起こしているのか、右側の腹筋の力が弱いみたいで、良く攣ったり、右の腰だけ痛くなります。まあ、何にしろ生きていて良かったですね。

Q 七夕は?

A そこですか(笑)その後平塚の七夕には一度もいってないと思います。大学生になってから仙台の方は見に行きましたが。

Q 大師近辺にはいつごろまで?

A 3歳までですね。3歳の時に、前年から入居が始まっていた百合丘団地に転居しました。写真は大師時代に住んでいたアパートだと思います。しかしなんで川崎の北の果てにできた団地に引っ越したんだろうか?20200427213325

Q 理由はあったんですか?

A 良く分からないけど、続きます。

 

 

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自分インタビュー[0004]20200717

●取材仕事の締め切りが2本重なり間が開きました。再開します。

 

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Q お母様もそう度々お祖父さんの家に行く訳にもいきませんね。

A そうですね。写真は多分歩いて行ける距離だった多摩川の土手だと思います。母が抱いているのは一緒に育った犬のシロ。あれ、名前に自信が無いな。祖父さんの家は猫を飼っていて「シロ」で、そいつと同じだったから、わが家の犬もシロで間違いないと思うけど。こういうことの記憶はあやふやになってますね、60年前だし(笑)

Q 犬種は?

A スピッツですね。最近めっきり見なくなりましたね、スピッツ。若い人はバンドしか知らないでしょうけど、昔は良く飼われてましたね。スピッツでなければ、今でいうミックス犬。スピッツはよくなついて可愛いんだけど、鳴き声がキャンキャンうるさいんですよね。

Q いつから飼ってたんですか?

A さすがにそれは覚えていない(笑)兄貴みたいな顔をしてたから、私が生まれる前かな。奴にあげたご飯(両親の食事の残り物)を私が食べようとしていて、困ったような顔をしてカメラを見ている写真があったはずです。本当に仲良く育ったようです。だからそれからずっと犬に警戒心が無くて、寄ってきた犬に手を出して、何度か噛まれて怪我したことがあります。

Q 他にはどんなところで時間つぶしを?

A ずっと後、59歳の時に母は脳梗塞で倒れるのですが、その時駆けつけてくれた伯母(母の長兄の奥さん)に、そのあたりのことはさんざん聞きました。当時、川崎駅の駅ビルに映画館があって、私を連れてそこに入って時間過ごしたこともあったらしいです。叔母からは「あんたのお父さんは全然子供の面倒を見なかった。お母さんは本当に苦労したんだから。孫の顔を見せないうちに(当時私はまだ独身でした)こんなことになっちゃって」と延々説教されたのはきつかった。やはり母は私を連れて祖父の家に行って、叔母に愚痴をこぼしたり、泣いたりしてたみたいですね。

Q 近所の様子や、住人の記憶はありますか?

A 保育園に行っていたわけでもないですし、周囲の記憶はほぼないですね。自宅と両親、祖父の家と、従妹や叔父伯母が世界のすべてでしたね。

●いかん。眠くなってきた。続きはまた。

 

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自分インタビュー[0003]20200711

●おはようございます。今日もよろしくお願いします。

 

Q 当時はどんな暮らしぶりでしたか?

A 前にもお話しましたが、父は日本鋼管に勤務していました。高校(時代的には旧制中学かな)卒業後、群馬から東京に出てきて専門学校で英語を勉強していたところ、彼の父親(私の祖父ですね)が事故で亡くなり、学業を諦め仕事に就いたと聞きました。

 英語についてはかなり堪能で、後年、街中で外国人観光客(だと思う)の案内などを良くしていて、ちゃんとコミュニケーションが取れていたという記憶があります。今でいう「通訳ガイド(通訳案内士)のようなアルバイトもしていたらしい。資格が取りたかったのに、やむなく就職したとたびたび話していました。

 今思うと、やりたかったことを何かの障害のために諦める、という事が、その後の父の人生ではたびたび繰り返されます。不思議です。なぜなんだろう。

 学生時代はどこに住んでいたのか、なぜ日本鋼管に就職したのかなど、聞きたいことは沢山ありましたが、聞けぬまま父は亡くなりました。当時を知る関係者もほぼ存命ではないので、分からんままでしょうねえ。

 日本鋼管ではもちろんホワイトカラーではなく、製鉄所の溶鉱炉の運転管理に関わる仕事をしていたはずです。休日に家で溶鉱炉のシステムを記した図面を見ながら、何かを追記したり、書類を作っているのを見たことがあります。今にして思うとマニュアル的なものでしょうね。

Q 溶鉱炉は24時間稼働と聞きますが

A そうですね。溶鉱炉関連の仕事は、朝番、遅番、夜勤の三交代勤務で、父もこの3つの勤務を何日か置きに繰り返していました。ですから、休日も不定期でした。もちろん週休二日なんてものもなく。日曜日も仕事に行くし、平日の昼間に寝ているし。こっちも子供だったので、あまり不思議に思うことはありませんでしたが。

Q 何かエピソードはありますか?

A 夜勤から帰宅して家で寝ているとき、幼かった私が泣くと父はとても不快がり、果ては怒り始めたそうです。自分の子なのに理不尽だな(笑)困った母は私をおぶって家を出て、外であやすこともしばしばだったと聞きました。近くに祖父一家が住んでいたのはありがたかっただろうなと思います。

 

●仕事があるので、続きはまた。

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自分インタビュー[0003]20200708

●今日も行きます、自分インタビュー

 

Q お母様はどちらの出身ですか?

A 横浜です。実家は子安で、父(私の祖父)は布団職人をしていました。その後、川崎大師近くで布団店を営むことになりますが、母の長兄一家もそこに同居していて、私の一家が住んでいたアパートが近かったので、小さいときはよく遊びに行っていました。その長兄と次兄、そして長女である私の母、という3人兄弟だとずっと思っていたのですが、死後、母が次女だったということが判明しました。
 母は2007年9月27日に、15年にわたる脳梗塞との闘病生活の末、亡くなりました。この時も、様々な手続きのために戸籍謄本が必要になり、父が取り寄せたところ、そこには「次女」という記載がありました。父も初めて知ったようでした。結婚のときにそういう話は出なかったのかと思いましたが… それが父なんですね。

Q ずっと川崎で育ったのでしょうか?

A 生まれてから、数回ごく近くの範囲で引っ越しをしたと聞いています。父の勤めのせいでしょうかね。いずれにしろ前述した祖父一家の家の周辺に住んでいました。祖父の布団店は間口より奥行きの方が広い、住居兼用の建物だったと記憶しています。店に入るとすぐに2階の物置に上がる梯子のような階段があり、母の長兄の娘(一20200621142657 歳年上のいとこ)と一緒に上り下りして遊んでいました。写真はその家の前の道で撮ったものだと思います。かなり広い道で、店の隣は大きな運送屋でトラックが何台も出入りするようなところでしたが、道は舗装されたりしていません。土です。右から母の長兄、祖父、長兄の奥さん、前にいるのが従妹、次兄夫婦、その前で母に抱かれているのが私です。頭がでかいですね。

 祖父一家にはとても可愛がってもらいました。後に祖父一家も、私の家も引っ越して、離れた所に暮らすようになるのですが、頻繁に泊りに行っていました。お正月は必ず祖父の家で迎えていた時期もありました。

続きます。

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自分インタビュー[0002]20200707

●昨夜はブログを書き始めた途端に睡魔に襲われ、たまらず寝てしまった。

●自分インタビュー、再開します。

 

Q どんな両親でしたか?

A 私が生まれた時、父は30歳。母25歳。結婚したのは昭和32年。見合い結婚でした。母のすぐ上の兄の結婚相手の親族を通じて父が紹介されたとのことですが、詳細は把握していません。今存命なのは、母の兄の結婚相手(伯母さん)だけなので、機会があればそのあたり話を聞いておかないと、わかる人がいなくなっちゃいますね。
 父は群馬県多野郡万場町大字小平字塔ノ沢の出身(現在の神流町)。戦前は小作人を多数抱える大きな家だったようで、父が子どもだった頃は、家に子守りが何人かいたそうです。6人兄弟の3番目と聞いていましたが、数年前に父が亡くなった時、保険関係の手続きのために出生地(神流町)の役場から戸籍謄本を取り寄せたら、幼少期に亡くなった兄弟が他にもいて、私が理解した範囲では8人兄弟の4番目ではなかったかと思います。
 父の父(私の祖父)は、家業(農業など)の傍ら町会議員をやっていたようですが、父が高校を卒業し、東京に出て専門学校で英語の勉強をしていた20代の頃、夜道を自転車で帰宅中に崖の上の道から川原に転落して亡くなったと聞いたことがあります。
 町議会議員の選挙がらみで何やらトラブルを抱えていた、というような話を昔、親族の集まりで聞いたことがありますが、詳しい内容はほとんど遠い記憶の彼方で、霞がかかってよく見えません。

Q 町会議員だったんですね。

A そうですね。父はその手のことをやらないというか、忌避する人で、子どものころ住んでいた団地の住民組合のようなものに参加する(役員ではないよ)ことを極端に嫌がり、そのことで母といさかいが絶えない人でした。「公」的な役割を果たすのは絶対嫌だ、と言ってはばからない人だったので、祖父が「公」の代表みたいな仕事をしていたとは、子どもの頃に聞いた時にはかなり意外な気がしました。祖父が議員だったことが父の人生に影響していたのかもしれませんね。よく考えてみたい問題です。

●書き始めたら記憶がどんどん引き出されてきて止まらない。仕事があるので今日はこの辺で。

続きます。

 

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自分インタビュー[0001]20200706

●コロナ自粛期間中に考えた企画を始めようと思う。

●35年以上コピーライターをやってきて、最近の仕事の中心は取材インタビューによる原稿作成になってきた。

●コピーライターとしては珍しいパターンだとおもう。インタビューが多くなったのは2000年前後。転職してある制作会社に所属して、建設機械の情報誌の制作に携わるようになってからだ。

●これまでインタビューした人数は、正確なところは把握できてはいないが1200人を上回ると思われる。(インタビュー対象が親子というパターンも最近多く、それを正確にカウントすると人数はもっと増えそうだ)

●会社社長から大学の学長、小学2年生までいろいろな人を相手にインタビューしてきたが、自粛中にこれまでインタビューしてきた音声データを整理していて、インタビューしたことが無い奴がいるのに気が付いた。

●自分である。

●ということで、始めます。自分インタビュー。

 

Q お名前は?

A 新井明人

Q 生年月日は?

A 1958年4月28日。調べたら月曜日でした。時刻は不明。親に聞いた覚えもないんですが、忘れてるのかな。

Q 出生地は?

A 神奈川県川崎市、今の川崎区ですね。父親が当時日本鋼管(今はJFEスチールとかいうのかな)の京浜事業所で働いていて、川崎大師のアパート住まい。その近くの産院で生まれたようです。へその緒を保存している箱が残っていて、表面に産院名が記されているんですが、古くてかすれて読めません(62年前だもんね)

続く

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新コロナ日記20200706

●熊本の豪雨被害の実態把握もままならないうちに、また豪雨が九州地方を襲っている。

気象庁は福岡、佐賀、長崎の3県に、「警戒レベル5」にあたる大雨特別警報を発表したとのこと。もうすでに甚大な被害も出てしまっているが、これ以上被害の広がらないことを心より願う。

●熊本に関する報道の中で、避難所に避難した人のインタビューがあった。「コロナどころじゃなくてマスクしないで逃げてきた」という。幼い女児とともに避難した母親と思しき人は、「暑くてマスクしてられない」と嘆く。

●避難所でマスクが配布されていたが、避難所はスペースの制約もある。疲労も重なれば、コロナ以外の感染症への対応もさらなる注意が必要であろう。

●しかし、毎年のように発生する被害の様子が、毎年同じ様子なのはどうにかならないのだろうか。治水治山技術は進歩しているのだとは思うが、同じような決壊が毎年発生する。

●避難所の光景も相変わらず、体育館など広いスペースを区切ってごろ寝。プライバシーも何もあったもんじゃない。余裕のある時に考えておかないと大変なことになるのは、今回のコロナで十分学んだろう。

●くしくも、そのコロナ対策が評価され小池百合子氏が二期目の東京都知事を務めることになった。災害対策は果たしてどのようにバージョンアップするのだろうか。昨年の多摩川の氾濫の例もある。球磨川だけの話ではない。

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新コロナ日記20200705

●あっという間に7月である。

●緊急事態宣言も解除され、東京アラートも発令基準と共にうやむやになり、息子の小学校や塾も再開。奥さんは三密の見本みたいな電車に乗っての通勤が始まり、仕事場に着く前にぐったりしながら毎日を過ごしている。

●私の仕事も細々と復活しているが、とても「食べていける」ようなボリュームではない。仕事の対価が時を置いてやってくるフリーランスであることが幸いして、5月末まではそこそこ入金があった。特別定額給付金もあり、直ちにどうこうという状況ではなかったが、6月の売り上げはゼロ(入金は多少ある)、7月も通常の1/4程度の売り上げになる見込み。

●今書いていて気付いたが、「特別定額給付金」というネーミングの意地悪さったらないな。

●下々に「特別に与える」、もうこれ以上はあげないよ、「定額だから」という文言を、これでもかと盛り込んでる。給付金というのも腹が立つ。もともとは我々の税金じゃないか。そんなに国民にお金を渡すのが嫌なのか。いかにも小役人が上目づかいで考えたネーミングではありませんか。

●「新型コロナに対応した生活支援金」とか、なぜできない。もう一度出すときはぜひ再考を願いたい。

●フリーランスなので「持続化給付金」の資格もある。6月分の売り上げがゼロになったので受給資格はあるのだが、6月分を根拠に申請するには、7月に申請する必要があるみたいだったので、一昨日書類をそろえて申請した。なんと「審査」があるらしい。

●不正防止のためとのこと。まあ、もやもやするよね。

●自粛中、いろいろ考えたことがある。新型コロナに絡めたこの日記も書き続けるが、新たな企画も始めようと思う。まだ自由になる時間もあるからね。

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